西池尻町の由来

鎌倉後期・弘安八(1285)年の古文書(春日神社文書)に「大和国高市郡増田池尻」とあり、時代が下った室町前期・至徳3(1386)年の文書(一乗院文書)にも地名「益田」がみえています。また、大和(奈良)の古跡を紹介した江戸時代の「和州旧跡幽考」には、いまも久米町にある久米寺のそばに「益田池」の跡が残り、池跡の西に「池じり村」のあることが書かれています。

 古く「増田池」といわれた池が、「益田池」と呼び変えられ、池の西に沿っていた集落も「池尻村」と呼ばれたのでしょう。

 江戸時代の池尻村が明治22年に白橿村の大字となり昭和を迎えます。昭和3年に畝傍町の大字となったあと同31年に橿原市に編入されて、同年10月に「橿原市西池尻町」となっています。

 池尻村だった明治15年ごろは、戸数37戸・人口204人・牛五頭を飼う農村(町村誌集)で、米・麦・ぶどう・綿・菜種などが主な産物(農産物取調表)でした。町の東部に鎮座する八幡神社の東北に「元陣屋敷」の小字名が残っています。江戸時代に当地一帯を領有した旗本・神保主膳氏の陣屋が当時、ここにあったそうです。 元禄10年には6000石の家であるといわれています。

 橿原市発足後、昭和35年の国勢調査で、西池尻町は人口562人・世帯数123世帯でありましたが、平成12年の国勢調査では人口3498人・世帯数1256世帯・面積は50ヘクタールとなっています。




畝傍山古図